■日本本土と同一の教育基本法が制定された琉球政府
講和条約発効前にダレス全権に沖縄にて日本と同一の制度で教育を行うことを要請した大濱ですが、後に、著書「私の沖縄返還秘史(昭和46年7月刊)」で、「私の進言が功を奏したかどうかは別として、結果から判断すれば、私の希望した線に沿ってことは運ばれている。」と述べていました。現に、復帰前の沖縄では、学校制度も教科書も教材も日本と同一であり、教員の免許状制度も統一され、教育基本法と学校教育法については、日本と同一内容の者が立法されていました。特筆するべきは、沖縄の教育基本法です。内容は昭和22年に制定された日本の教育基本法と同じですが、前文のみを変えています。日本国の教育基本法の前文の書き出しは、「われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家、」ですが、当時の沖縄は日本国憲法の適用外です。そのため琉球政府の教育基本法では「我らは日本国民として人類普遍の原理に基づき、民主的で文化的な国家及び社会を、」と修正されていました。
琉球政府の教育基本法には、本土には無い「日本国民として」という文言が加えられていたのです。 2年後、昭和29年9月、大濱は早稲田大学の総長に就任し翌年には中央教育審議会の委員にも就任し、その仕事は多忙を極めていました。そのような中、総理官邸のパーティーに招かれた大濱は、池田首相から南方同胞援護会の会長への就任の要請をうけましたが、大濱は激職のため返答を渋っていました。南方同胞援護会とは、昭和31年に自民党の推進によって設立された財団法人であり、当時、日本政府は直接、沖縄への支援ができないため、民間の外郭団体という形で作られた組織です。初代会長を努めたのは第16代日銀総裁の渋沢敬三氏(渋沢栄一の孫)です。その渋沢氏が健康上の理由から会長の辞任を持ち出したため、次期会長として大濱に白羽の矢があたったのでした。
■本格的沖縄問題への取り組みへ
大濱は南方同胞援護会(以下、「南援」と記述)の会長就任を渋りましたが、池田首相は諦めず、後日、官房長官大平正芳を使いに出して会長への就任を求めました。仕事の性質上沖縄出身者があたるのが良いし、それには大濱しかいないというのが大平の言い分でした。その裏には、南援の事務局長を務め、実務の推進にあたっていた吉田嗣延(よしだ・しえん※明治43年沖縄県生まれ。東京帝国大学卒)の根回しがありました。吉田は、後任の会長になる人は、沖縄の心に深い理解とつながりを持つ人であり、更に鋭い国際感覚を持ち、複雑困難な沖縄問題に忍耐強く対処してくれる人でなければならず、それには大濱しかいないと考えていたのです。吉田も大濱の私邸を訪ね説得にあたった時、英子夫人から「夫をこれ以上酷使しないで下さい」とまで言われましたが、諦めることはありませんでした。
このような周囲からの熱心なすすめにより、大濱はついに会長に就任することを受諾したのです。それは、昭和36年9月のことでした。大濱の沖縄問題への新たな取組が本格的に始まったのでした。
大濱は就任後まもなく、沖縄訪問に旅立ち、南援が過去沖縄に建設してきた数々の社会福祉を視察しました。関係者とあって今後の問題点なども十分に話し合い、米軍との接触も忘れませんでした。そのときのことを、次のようにのべています。
「私は終戦後三、四回沖縄を訪ねているけれども、今までは教育関係のことで言ったので、だいたい社会の表面だけしか見なかったが、今回は南援の会長として社会福祉事業関係も多かったので、不幸な人々の援護施設を通じて、沖縄の社会の底や裏をのぞくことができたような気がした。(「沖縄と小笠原」昭和37年3月)」
これは、短い大濱の率直な感想ではありますが、自らの故郷である沖縄問題への取り組みの固い決意がにじみ出ているのではないでしょうか。
■正しい世論の形成
昭和35年4月28日、沖縄県で沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)が結成されました。これは、沖縄の革新政党、労働組合等各種団体の統一組織です。それに呼応するように、本土でも日本青年団協議会、地域夫人団体連合会、沖縄県人会、日本健青会、そして総評系労働組合が参加した沖縄復帰国民運動連絡協議会(沖縄連)が組織されました。大濱は、沖縄問題を解決するためには、住民運動、国民運動が果すべき役割の重要性を理解していました。しかし、同時に大衆運動が犯しやすい過ちや災いも案じていました。それは、指導者の政治的偏向と現実無視の扇動、大局を見ない独り歩きなどです。
ある日、南方同胞援護会(以下、「南援」と記述)の会長室で、正しい世論の形成と南援の役割が話題となって話し合いが繰り返されました。それを大濱は次のように集約しました。
①南援護はこれまで以上に沖縄に対する各種の援護活動を進めていかねばならぬが、一方で、沖縄の祖国復帰を促進するためにさらに積極的な役割を果すべき。②国民運動が盛り上がってきたことはよろこぶべきことであるが、放っておけば単純な反米運動となるおそれがある。③沖縄復帰を円満に実現するためには大衆の力で押すというだけではなく、相手を説得する理論と復帰に至る具体的手順などをもって迫っていくことが、これから一層必要となる。④したがって、南援は、復帰のために考えられる様々な問題を整理し、それに対する方向付けを行い、これを国民運動にも反映させていく必要がある。
大濱は、早稲田大学の総長として、学生運動の嵐の中で、大衆運動による扇動の危険性をだれよりも深く感じ取り、正しい世論を形成する方法をだれよりも思索していたのかもしれません。実際、沖縄返還協定が締結される頃には、復帰協は日米安保破棄をスローガンに掲げはじめ、沖縄連は活動の偏向が顕著になったため、日本健青会は脱退したのです。(続く)
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