前編は、昭和天皇や外務省の沖縄の主権を守るための戦いが見えない国民目線で、終戦からサンフランシスコ講話条約までの流れを追っていきます。
■終戦直後の自治政府の始まり(沖縄諮詢会しじゅんかい)
玉音放送にてポツダム宣言の受諾と戦争の終結を国民に発表さらた8月15日、沖縄県民は玉音放送を聞くことができませんでした。
ラジオの電波が届かないからです。
同日、沖縄では琉球列島米国軍政府の招集により、崩壊した行政機関の編成が始まっていました。各地区収容所から124名の代表が石川市に集って、中央機関の組織を申し合わせました。
同20日、第二回準備委員会を開き諮詢委員候補者24名の中から選挙の結果、15名の委員が選出され、正式に沖縄諮詢委員会として発足しました。これは、沖縄戦による沖縄県庁解体後、沖縄本島における最初の行政機構であり、以後、1946年に「沖縄民政府」が創設されるまで、米軍政府と沖縄諸島住民との意思疎通機関としての役割を果たしました。行政機関といっても専門の庁舎は存在せず、食料の配給が主な目的での管理委員の自宅を事務所として利用していました。
沖縄諮詢会(Okinawa Advisory Council)
■沖縄上陸と同時に「琉球列島米国軍政府」を開設した米軍(1945年4月5日)
終戦後の沖縄は、このように米軍の政府の下に自治行政組織を置く形で復興が始まりました。
では、沖縄の軍政府はいつ設立されたのでしょうか?それは、実に早く、沖縄に上陸直後の4月5日に設立されています。
つまり、ポツダム宣言を受諾する前であり、地上の戦闘が本格化する前に「琉球列島米国軍政府」が設立されたのです。
その根拠となるものが、「米国海軍軍政府布告第1号」です。太平洋艦隊司令長官ニミッツ海軍元帥の名で布告されたので通称「ニミッツ布告」と呼ばれています。
この布告は、日本政府の全ての行使権の行使を停止し、南西諸島及び近海並びにその居住民に関するすべての政治及び管轄権並びに最高行政責任が、占領軍司令官兼軍政府総長、米国海軍元帥であるニミッツの権能に帰属すると宣言するものでした。
ニミッツは、これを沖縄本島への上陸を開始した4月1日に布告しそのわずか4日後に軍政府を設立したのです。
これは、ポツダム宣言の執行のために設立されたGHQとは異なった性質のものです。
米国海軍軍政府布告第1号(ニミッツ布告) PDF版
https://docs.google.com/viewer?a=v&pid=explorer&chrome=true&srcid=0B9TqZd5_2FaCYWZjMmQ5YmYtMjJlMy00NmVjLTkyMTctMzAyOGJjOTRjYjgw&hl=ja
■「琉球列島米国軍政府」の設立は、本土上陸をスムーズに遂行するため
沖縄での迅速な軍政府の設立は、日本本土への上陸作戦の遂行に目的があったようです。
あまり知られていませんが米軍は、沖縄戦の遂行と共に「ダウンフォール作戦」という名の日本本土上陸作戦の準備が進めていました。
この作戦は、占領した沖縄の基地を拠点として九州南部の宮崎に部隊を上陸させる「オリンピック作戦」(11月1日予定)、そして、九州に確保した航空基地を利用して関東地方に部隊を上陸させる「コロネット作戦(1946年3月1日予定)」からなっていました。
この作戦を遂行するためには、沖縄の迅速な基地化が必須であり、そのためには沖縄住民も基地運営の労働力として利用を考えていたのだと思います。
布告とはいっても実際は、官民ともに戦闘の真っ最中ですので、ビラを配ったとしても素直に受け取る人はいません。軍政府の実態は、捕虜収容所の管理だったと考えられます。
実際に、沖縄の戦後の自治行政の組織化も前述のように捕虜収容所から始まりました。
■共産主義勢力の台頭により軍事拠点の重要性が増していく沖縄
終戦時、すでに沖縄では広大な米軍基地が建設されていましたが、米国内部では、沖縄を日本から分離占領したいマッカーサー等の軍部と日本へ返還するべきと考えていた国務省と意見が対立しワシントンは方針を決められないまま数年を費やしてしまいます。
そのため、沖縄の軍政府は中長期的な予算を計上することができず本格的な基地建設も民政の向上のための投資も長期的計画を建てることができませんでした。
渡航の自由も貿易の自由も無く経済的に最も厳しく、更に大学も無いため高等教育を受けるチャンスもありませんでした。
その後、急速に国際情勢は変化していきます。
1947年 3月12日 トルーマンドクトリン
アメリカの対ソ基本政策である「「封じ込め政策」を宣言したもので、冷戦の宣戦布告となった。
1949年10月 1日 中華人民共和国
共産主義政党による一党独裁国家である中華人民共和国を樹立。
1950年 6月25日 朝鮮戦争勃発
朝鮮半島の統一支配を目論む北朝鮮が38度線を越える軍事侵攻に踏み切った。
1950年 8月10日 警察予備隊発足
アメリカ軍の日本駐留部隊が朝鮮半島に出動することとなった空白を埋めるため創設。
■サンフランシスコ講話条約と沖縄の主権
対日講話条約の交渉が進み始はじめ、アメリカの対日平和条約に関する七原則が発表されます。
<1950年>
11月24日 アメリカの対日平和条約に関する七原則
<アメリカの対日平和条約に関する七原則(1950年11月24日)>
三,領土
日本は,(a)朝鮮の独立を承認し,(b)合衆国を施政権者とする琉球諸島および小笠原諸島の国際連合による信託統治に同意し,(c)台湾,澎湖諸島,南樺太および千島列島の地位に関する,イギリス,ソヴェト連邦,カナダ,合衆国の将来の決定を受諾しなければならない。条約発効後一年以内に何の決定もなされない場合には,国際連合総会が決定する。〔日本は,〕中国における特殊な権利および権益を放棄しなければならない。
PDF版 https://drive.google.com/file/d/0B9TqZd5_2FaCZDUyNzg4ZGItNmJmYy00YzY2LTllNGItMDM0MDE4OTVlM2Iy/view
対日平和条約に関する七原則が発表されると沖縄では、急速に復帰運動が盛り上がってきました。
<1951年>
4月29日 日本復帰促進期成会(初の復帰運動組織)結成、復帰署名運動が目的
5月20日 日本復帰署名運動開始。
8月20日 署名運動終了。署名該当者数276677名のうち 199356名が署名、有権者の72.1%。
6月28日 沖縄青年連合会(現沖青協)を主体に「日本復帰促進青年同窓会」を結成復帰署名運動に協力。
7月10日 日本政府、講話条約案を公開
8月 1日 奄美大島で復帰要求波状ハンガーストライキ
8月25日 8月26日の両日に分け、嘆願書と共に復帰署名簿は、青田全権、ダレス特使宛発送。
日本復帰期成会はサンフランシスコ講和条約に反対し、沖縄の即時復帰の嘆願書と署名簿を講和会議参加国全権に送付しました。
1951年8月28日〔写真:『沖縄県祖国復帰闘争史』沖縄時事出版より〕)
8月28日 群島知事、同議会は吉田首相、ダレス米特使、講和会議議長宛に日本復帰要請を打電
しかし、日本復帰期成会の署名や嘆願は叶うこと無く9月8日には、サンフランシスコにて対日講和条約が締結されてしまいました。
9月 8日 対日講話条約(サンフランシスコ講和条約)調印
<サンフランシスコ平和条約(日本国との平和条約(1951年9月8日)>
第三条
日本国は、北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島、西之島及び火山列島を含む。)並びに沖の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする。
PDF版
https://drive.google.com/file/d/0B9TqZd5_2FaCMGYwNjU0ZjItM2U3Mi00YzEwLWE1MWYtMjU4YTY3OTJjMTYx/view
■サンフランシスコ講話条約を成功に導いた天皇の提案した「潜在主権」方式
サンフランシスコ講話条約締結時、多くの沖縄県民は祖国に復帰の願いが実現する事ができず落胆しました。しかし、その後21年後、沖縄は祖国復帰を果たしました。沖縄が祖国復帰できたのは、米国務省も第三条の解釈で沖縄に対する主権が日本にあるという事を認めたからです。実は、この提案を真っ先に行っていたのが昭和天皇だったのです。
次回は、昭和天皇がどのようなご提案をされたのかを追っていきたいと思います。
(仲村覚)