3月7日衆議院予算会議で安倍総理がサンフランシスコ講和条約が発効した4月28日を「主権回復の日」として政府主催の式典を開催することを明らかにしました。その趣旨については山谷えり子議員がチャンネル桜で説明を述べられています。
<【山谷えり子】主権回復記念日と占領憲法[桜H25/3/7] >
しかし、沖縄のマスコミは鬼の首をとったかのように大きな反発が帰って来ました。
<4月28日「屈辱の日」に式典 首相「独立認識する日」>
(琉球新報 2013年3月8日)
https://ryukyushimpo.jp/news/prentry-203692.html安倍晋三首相は7日の衆院予算委員会で、1952年にサンフランシスコ講和条約が発効し、沖縄が日本から切り離された日に当たることし4月28日を「主権回復の日」として、政府主催の式典を開く方針を明らかにした。県内では、基地重圧の源流で米軍の圧政が固定化したこの日を「屈辱の日」と呼ぶだけに、反発の声が上がっている。
1952年の講和条約発効により、日本は占領統治から独立を回復したが、沖縄は米軍統治下に差し出される形となった。
自民党は、昨年の衆院選公約に「主権回復の日」を掲げており、首相は「実施する方向で検討している」と明言した。近く閣議決定する。
首相は「主権を失っていた7年間の占領期間があったことを知らない若い人が増えている。日本の独立を認識する節目の日だ」と意義を強調した。
2月8日、菅官房長官は、来週の閣議で式典開催を正式に決定する事を発表しました。その際、「沖縄の皆さまへ寄り添う中で式典の中で式典を開催したい」と述べました。
<主権回復式典の開催決定へ=菅官房長官「沖縄に寄り添う」>
(時事通信 2013.3.8 11:15)
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2013030800345菅義偉官房長官は8日午前の閣僚懇談会で、サンフランシスコ講和条約発効から61年を迎える4月28日、日本の主権回復と国際社会復帰を記念する政府主催の式典を開催すると報告した。来週の閣議で正式決定する。
沖縄県では、条約発効により米国の施政権下に置かれたこの日を「屈辱の日」と呼ぶなど否定的な感情もあることから、菅長官は閣僚懇で「沖縄の苦難の歴史を忘れてはならない。沖縄の皆さんの気持ちに寄り添う中で式典を行っていきたい」と強調。「式典に当たっては沖縄の抱える基地負担の軽減に取り組み、沖縄を含めたわが国の未来を切り開いていく決意を新たにする」と語った。
反発しているのは、いつもながら普天間問題やオスプレイ配備配備撤回運動をしている左翼団体と沖縄のマスコミですが、今回ばかりは、一概に否定できないところがあります。
サンフランシスコ講和条約1条では、日本は主権を回復しました。しかし、第3条で奄美、沖縄は米国の信託統治領となり、行政、立法、司法権を失ったからです。沖縄にとって、4月28日は主権回復の日ではなく、正反対の主権喪失の日だったのです。
そのため、戦後日本の歴史を見た時に、サンフランシスコ講和条約は本土と沖縄では全く異なったものに見えるのです。
その相互の認識のギャップを沖縄分断工作に利用しようとする勢力がいるため、なんとしてもこのギャップは埋めなければならないと思います。
今一度、サンフランシスコ講和条約を沖縄から見るとどのように見えるのか、自分が終戦直後沖縄に住んでいたと過程して、その歴史を追って頂きたと思います。
まず、サンフランシスコ講和条約の第3条を紹介いたします。
日本国は、北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島、西之島及び火山列島を含む。)並びに沖の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする。
この条約が根拠で、沖縄は米国の施政権下におかれることになります。
この条約が締結される前年の1950年の秋、沖縄に衝撃が走ります。
アメリカの対日平和条約に関する七原則が発表されたからです。その案には「合衆国を施政権者とする琉球諸島および小笠原諸島の国際連合による信託統治に同意」と書かれていたのです。
この条約がそのまま締結されると自分たちだけでなく、自分たちの子孫も日本人で無くなってしまうという危機感を持ったからです。
三,領土
日本は,(a)朝鮮の独立を承認し,(b)合衆国を施政権者とする琉球諸島および小笠原諸島の国際連合による信託統治に同意し,(c)台湾,澎湖諸島,南樺太および千島列島の地位に関する,イギリス,ソヴェト連邦,カナダ,合衆国の将来の決定を受諾しなければならない。条約発効後一年以内に何の決定もなされない場合には,国際連合総会が決定する。〔日本は,〕中国における特殊な権利および権益を放棄しなければならない。
祖国から分断される危機感を持った沖縄では、急速に復帰運動が盛り上がってきました。
4月29日 日本復帰促進期成会(初の復帰運動組織)結成、復帰署名運動が目的
5月20日 日本復帰署名運動開始。
8月20日 署名運動終了。署名該当者数276677名のうち 199356名が署名、有権者の72.1%。
6月28日 沖縄青年連合会(現沖青協)を主体に「日本復帰促進青年同窓会」を結成復帰署名運動に協力。
7月10日 日本政府、講話条約案を公開
8月 1日 奄美大島で復帰要求波状ハンガーストライキ
8月25日 8月26日の両日に分け、嘆願書と共に復帰署名簿は、青田全権、ダレス特使宛発送。
(写真:沖縄の信託統治に反対しダレス特使などに送った、即時復帰の嘆願署名)
1951年8月28日〔写真:『沖縄県祖国復帰闘争史』沖縄時事出版より〕)
当時の沖縄県民は、日本から切り離されることを何とか避けようと、あらゆる活動を行いました。しかし、その願いは叶うこと無く9月8日には、サンフランシスコにて対日講和条約が締結されてしまいました。
サンフランシスコ講和条約が締結されるとともに沖縄の自治政府も大きく変動していきます。
1950年、沖縄の自治政府は、奄美群島政府、沖縄群島政府、 宮古群島政府、 八重山群島政府が置かれ、それぞれに議会と知事が置かれていました。
1951年4月1日、「琉球臨時中央政府」が置かれ、群島政府の権限は縮小されていきます。そして、サンフランシスコ講和条約発効直前の1952年4月1日、「琉球臨時中央政府」が解散し、「琉球政府」が設立されました。この琉球政府は沖縄の施政権が日本に返還される1972年5月15日まで20年間存続しました。
その琉球政府は、米国民政府の布告により設立されました。その布告の一部を紹介いたします。
改正 米国民政府布告第十七号(一九五二・四・二一)
琉球政府の設立
琉球住民に告げる。 琉球住民の経済的,政治的及び社会的福祉を増進するため,琉球政府を設立することが望ましいので,本官琉球列島民政副長官陸軍少将ロバート・ビートラーはここに次の通り布告する。
第一条
立法機関,行政機関及び司法機関を備える琉球政府をここに設立する。
第二条
琉球政府は,琉球における政治の全権を行うことができる。但し,琉球列島米国民政府の布告,布告及び指令に従う。
(以下省略)
琉球政府は、日本の国会に相当する立法院という議会が設置されていましたが、あくまでも琉球列島米国民政府の下部組織であり、その布告に従わなければなりませんでした。米国民政府のトップは軍人でありサンフランシスコ講和条約から更に20年間、沖縄は米軍の配下にあったということです。
その沖縄が主権を回復する運動とは、「沖縄県祖国復帰運動」であり、国際法的には、サンフランシスコ講和条約3条を撤廃させることでした。復帰運動も反米運動や安保闘争などが紛れ込んで複雑な様相を呈していましたが、「サンフランシスコ講和条約3条を撤廃」=「主権回復」という点は普遍です。
沖縄祖国復帰を実現した沖縄返還協定には、そのサンフランシスコ講和条約第3条の権利を米国が放棄することが記載されています。
(沖縄返還協定)
日本国及びアメリカ合衆国は、日本国総理大臣及びアメリカ合衆国大統領が1969年11月19日、20日及び21日に琉球諸島及び大東諸島(同年11月21日に発表された総理大臣と大統領との間の共同声明にいう「沖縄」)の地位について検討し、これらの諸島の日本国への早期復帰を達成するための具体的な取極に関して日本国政府及びアメリカ合衆国政府が直ちに協議に入ることに合意したことに留意し、両政府がこの協議を行ない、これらの諸島の日本国への復帰が前記の共同声明の基礎の上に行なわれることを再確認したことに留意し、アメリカ合衆国が、琉球諸島及び大東諸島に関し1951年9月8日にサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約第3条の規定に基づくすべての権利及び利益を日本国のために放棄し、これによつて同条に規定するすべての領域におけるアメリカ合衆国のすべての権利及び利益の放棄を完了することを希望することを考慮し、また、日本国が琉球諸島及び大東諸島の領域及び住民に対する行政、立法及び司法上のすべての権利を行使するための完全な機能及び責任を引き受けることを望むことを考慮し、よつて、次のとおり協定した。
第1条
1. アメリカ合衆国は、2に定義する琉球諸島及び大東諸島に関し、1951年9月8日にサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約第3条の規定に基づくすべての権利及び利益を、この協定の効力発生の日から日本国のために放棄する。日本国は、同日に、これらの諸島の領域及び住民に対する行政、立法及び司法上のすべての権利を行使するための完全な権能及び責任を引き受ける。
(全文はこちら)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/1972/s47-shiryou-4-1.htm
以上の流れを見ると、
(1) サンフランシスコ講和条約は本土と沖縄では全く正反対の意味を持つ条約であること。
(2) サンフランシスコ講和条約は日本民族の分断統治であったということ。
(3) 沖縄の主権回復運動は、サンフランシスコ講和条約第3条を撤廃させる事であったこと。
(4) 昭和47年(1972年)5月15日こそ沖縄の主権が回復した日であること。
をご理解いただけると思います。
政府が主催する式典は、日本国民の団結を固める事が目的であり、間違っても日本国民の心がバラバラになるような事は決してあってはならないと思います。
その事を理解した上で、主語を「全日本国民」にした「主権回復の日」、「主権回復記念日」はどのようなものでなければならないのか考える事が「強い日本」をつくる上で重要ではないかと思います。
(仲村覚)