■東京から見る4月28日
本日4月28日を「主権回復記念日」として国民の祝日にしようという運動があります。この日は、サンフランシスコ平和条約により、大東亜戦争に敗戦した日本の主権が回復した日だからです。
以下に全文掲載しているサイトがありますので是非御覧ください。日本が主権を回復した条文は第一章です。
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<サンフランシスコ平和条約(日本国との平和条約)>
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/docs/19510908.T1J.html
第一章 平和
第一条
(a) 日本国と各連合国との間の戦争状態は、第二十三条の定めるところによりこの条約が日本国と当該連合国との間に効力を生ずる日に終了する。
(b) 連合国は、日本国及びその領水に対する日本国民の完全な主権を承認する。
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条文には、「日本国民の完全な主権を承認する」とあります。
しかし、主権を回復したにも関わらず、自主憲法の制定も自主防衛も行わず国家主権意識の薄弱なまま60数年を過ごしてしまいました。現在でも独立主権国家として不十分であり、特に民主党が政権の座についた今、国家の存続も危うい状態になっています。
「そのような状態だからこそ、4月28日「主権回復記念日」として国民の祝日と制定し、日本国民全体で「国家主権の尊重」を深く考える日としたい」というのが祝日制定の趣旨です。
本日のサンケイ新聞に小堀先生の論文が掲載されていますので、是非御覧ください。
<東京大学名誉教授・小堀桂一郎 「力」と決断の智略が国家なのだ>
(サンケイ新聞 2011.4.28 03:21)
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110428/dst11042803210004-n1.htm
■沖縄県民にとっての4月28日
一方、昭和27年4月28日は沖縄県民にとっては、全く反対の意味を持ちます。
沖縄に関係するのは、サンフランシスコ平和条約の3条です。
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<サンフランシスコ平和条約(日本国との平和条約)>
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/docs/19510908.T1J.html
第三条
日本国は、北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島、西之島及び火山列島を含む。)並びに沖の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ且つ可決されるまで、合
衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする。
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沖縄にとっては、昭和27年4月28日は完全に主権を失い、米国の植民地として生きて行くことが決まった日なのです。
今でこそ、沖縄は祖国日本に復帰しましたが、この条約を締結した時、沖縄にとっては、永遠に米国の統治下で生きて行くことを宣言されたようなものです。当時は、まさかわずか27年で祖国復帰できるとは夢にも思えなかったのです。
このような歴史を持つ沖縄では、既に4月28日は特定の記念日となっています。
参考に本日の沖縄タイムスの記事を紹介します。
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<屈辱の歴史 司法で断つ 嘉手納爆音訴訟>
(沖縄タイムス 2011年4月28日 09時36分)
http://www.okinawatimes.co.jp/article/2011-04-28_17151/
沖縄が日本から切り離され米軍統治下に置かれた1952年の「4・28」から28日で59年。いまも米軍機の激烈な訓練や事件・事故にさらされる沖縄は、「屈辱の日」の束縛から抜け出せていない。くしくもこの日、嘉手納基地周辺の住民2万2千人による第3次嘉手納爆音訴訟が提訴される。「植民地扱いされる時代はもう終わりにしたい」。かつて裁判所の書記官として飛行差し止め請求を退ける判決文を原告側に手渡した福地義広さん(50)は、今度は原告の1人として爆音に立ち向かう。(鈴木実) 以下省略
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このように、沖縄にとっては現在でも4月28日は「屈辱の日」として報道されています。特に、反米・反基地運動団体がこの日を重要視し、統一行動などを行ったりしています。
沖縄の左翼の応援するわけではないのですが、4月28日が沖縄にとってどういう意味を持っているのかご理解いただくために社民党の照屋寛徳のブログを紹介します。
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<照屋寛徳のブログ:4月28日は「屈辱の日」、沖縄問題の原点の日>
http://terukan.blog44.fc2.com/blog-entry-173.html
1952年4月28日、サンフランシスコ平和条約が発効し、日本は独立を達成するが、奄美諸島・琉球列島はアメリカの軍事支配下に置かれた。奄美・琉球(沖縄)は、本土(日本)の施政権から分離されたのである。以後、1953年12月に奄美諸島は本土復帰が実現した。琉球列島(沖縄)の施政権返還、本土(祖国)復帰が実現するのは、1972年5月15日であり、その間沖縄はアメリカの直接的支配下に置かれた。
沖縄では1960年に祖国復帰協議会(復帰協)が結成され、サンフランシスコ平和条約が発効した1952年4月28日を「屈辱の日」として、復帰運動を展開した。
(以下省略)
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彼は、私の最も嫌いな政治家の一人ですが、述べている事は事実ですので参考になると思います。
■4月28日=「屈辱の日」で沖縄県民の心を掴んだ安保闘争勢力
復帰運動の頃は、4月28日は「沖縄デー」と呼ばれ、復帰運動の統一行動日であり、米軍占領下の沖縄と日本の国境線の海上で集会なども開催されていました。
沖縄タイムスの写真があります。
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<4.28海上集会(1963)>
http://rca.open.ed.jp/history/story/epoch5/henkan_up/up06.html
講和条約が発効した1952(昭和27)年4月28日は、沖縄が日本から切り離された日でもあった。復帰協はこの日を“4・28沖縄デー”とよび、毎年復帰要求県民大会を開くとともに、北部海上の沖縄と与論島間の北緯27度線上で海上集会を持ち、本土代表と闘いの連帯を固めた。1963(昭和38)年4月28日。沖縄タイムス社刊『写真記録 沖縄戦後史』より
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沖縄の戦後史は複雑です。
この記事に書かれている「本土代表」というのは、実は70年安保闘争の運動家たちなのです。70年安保闘争は60年安保闘争と異なり、「沖縄返還運動」がセットとなって行われていたのです。
ですので、「沖縄デー」を制定しのは安保闘争勢力であり、「祖国復帰協議会」を立ち上げたのは沖縄の左翼勢力、つまり革新政党とその支持組合であり、上記の海上集会はその二つが連帯して行われていたのです。
しかし、沖縄でこの運動に参加したのは左翼ばかりではありません。
日本人としての誇りを持つ沖縄県民なら誰でも1日でも早く祖国日本に復帰したいのであり、そのような純粋な思いで祖国復帰運動は行われていたのです。
「祖国復帰協議会」の実態は安保闘争の沖縄現地闘争本部であり、安保延長が条件の沖縄返還の実現が見えてくると「安保反対」や「沖縄返還協定粉砕」を主張し始めたのです。
つまり、沖縄にとっての4月28日は、郷土沖縄が祖国日本から切り離された屈辱の日であると共に、左翼がそれを利用して安保闘争運動に巻き込んだという複雑な歴史があるのです。
詳しくは、下記ブログをご参照ください。
<JSN■「誰も知らない沖縄祖国復帰の真実」(前半)>
<JSN■「誰も知らない沖縄祖国復帰の真実」(後半)>
■祝日の制定は日本国民を団結させるものでなければならない
私は、もし4月28日を「主権回復記念日」として祝日に制定したとしても沖縄県民の心に響く事は無いのではないかと危惧の思いを持っています。沖縄の歴史に不勉強な人なら無批判に受け入れるかも知れませんが、沖縄の復帰を望んで運動をしてきた愛国心のある人ほど素直に喜ぶ事は出来ないと思います。
私が最も危惧しているのは、おそらく、沖縄の反日活動に利用される危険性が高いという事です。例えば、「沖縄が切り捨てられた4月28日を祝日の日とするのか!」「沖縄を無視したような祝日を制定するのか?」とクレームがあがり、更に沖縄と本土の亀裂が入ってしまう事になりかねません。これでは、沖縄を本土から切り離したい、左翼勢力、中国共産党を喜ばせる事になってしまいます。
本来、祝日の制定は日本国民を団結させるものでなければならないと思うのです。
沖縄が主権を回復したのは、昭和47年5月15日です。
佐藤栄作総理大臣が残した「沖縄が帰らなければ戦後は終わらない」という言葉のとおり、日本の主権を奪われた沖縄が日本に帰って来た日であり、その日こそが国民の祝日に相応しいと思うのです。この5月15日を日本国民全員で祝う事が日本を団結させ強くするのだと思います。
私は、昭和27年4月28日は祝日というより「国民反省の日」であるべきです。祝日として制定するのは難しいのですが、主権意識を高めるには、深く反省をしなければならない日だと思います。
勝手な意見を述べました。この意見は多くの方のご理解をいただくにはまだまだ時間がかかると思います。しかし、日本の主権回復について議論する時は、是非沖縄の祖国復帰とうい日本が沖縄の主権を回復した重要な歴史を含めて議論していただきたいと願っています。
(JSN代表 仲村覚)