JSN■「誰も知らない沖縄祖国復帰の真実」(後半)

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■祖国復帰記念式典に参加しなかった沖縄県祖国復帰協議会
続いて、11月24日に沖縄返還協定法案が衆院本会議で強行採決され、翌年1月7日には日米共同声明で沖縄の本土復帰は5月15日と発表されました。そしてついに、5月15日に沖縄祖国復帰(沖縄施政権返還)を実現する事ができました。

この日も沖縄問題の根本を知る上で重要な事があります。那覇市民会館では沖縄県主催の「沖縄復帰記念式典」が開催されましたが、その席に沖縄県祖国復帰協議会で運動していた人たちはいなかったという事です。彼らは、日本人として祝っても祝い切れないほど嬉しい沖縄祖国復帰の瞬間を祝う事なく、逆に日本政府への抗議集会を開催していたのです。その日は大雨でした。式典が行われている那覇市民会館の隣の与儀公園で、強い雨が降りしきる中、1500人が集まり「沖縄処分抗議、佐藤内閣打倒5.15県民総決起大会」を開催していたのです。

///【資料】///

「沖縄処分抗議、佐藤内閣打倒5.15県民総決起大会」(写真:沖縄公文書館)

(文章:読谷バーチャル平和資料館より)
http://heiwa.yomitan.jp/3/2468.html(リンク切れ)
那覇市民会館では祝賀の式典が執り行われ、その隣の与儀公園では5・15を屈辱の日として冷たい雨の中で県民抗議集会が行われていました。雨は傘をも通り抜けて参加者たちの身体にまでしみ込んでいきました。

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悲しい事に、その日以来、沖縄では今に至るまで、5月15日は、祖国復帰を祝う日ではなく、基地撤去運動の統一行動日となってしまっているのです。

///【資料】///

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■屋良主席を日本政府との対立に追い込んだ沖縄の革新勢力
沖縄の祖国復帰直前、沖縄は革新政権であり、与党は社会党、共産党、沖縄人民党の三党でした。しかし行政トップの屋良主席は、与党三党のように日本政府と対立を精鋭化する事なく、復帰を優先する形で行政を行っていました。逆に革新与党と対立する事が多かったのです。しかし、昭和46年(1971年)4月19日、革新共闘会議が合同役員会で屋良行政を否定し積極的に介入していく事を決めました。その後、副主席などの幹部が次々と辞任に追い込まれ、屋良主席は数回退陣を表明した事がありましたが受け入れられませんでした。そして、9月21日に与党三党代表、議長、副議長、事務局長で構成する『政策推進会議』が発足し行政府と革新与党が連携する体制が作られました。そこで、真っ先に始めた作業が「復帰措置に関する建議書」の作成です。それは、11月14日に完成しました。その建議書には祖国復帰協議会の方針である「即時無条件全面返還」が織り込まれ、屋良主席は、日本政府に「基地撤去」「自衛隊配備反対」を要求するところまで追い込まれたのです。これは、屋良主席の行政方針が180度転換するような出来事だったのです。

■今の沖縄は復帰直前と全く同じ事が起きている
復帰前の沖縄では米軍基地を容認していた屋良主席が、革新勢力の圧力により日本政府に米軍基地撤去を訴える様になりました。そして、民主党政権が発足した後の沖縄では、普天間基地の辺野古移設を容認していた仲井真知事が県外国外移設を訴えるようになりました。

・・・全く同じです。

復帰協は「復帰措置に関する建議書」に「平和で新しい豊かな沖縄県づくり」という言葉で、「即時無条件全面返還」の米軍基地撤去の方針を押しこみました。そして、平成22年(2010年)3月29日沖縄県の長期行政方針である「沖縄21世紀ビジョン」に「基地のない平和で豊かな沖縄」という文言が明記され、米軍基地の全面撤去の方針を押し込まれました。

・・・これも全く同じです。

///【資料】///
<沖縄21世紀ビジョン>
http://www.pref.okinawa.jp/21vision/index.html

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21世紀ビジョンに基地撤去方針を押しこむまでには、重要な動きがありました。まず、平成22年(2010年)1月24日の名護市市長選挙で辺野古移設反対の稲嶺氏が当選しました。この選挙運動には全国からの共産党系組合の人、物、金の全面的応援がありました。

///【資料】///
<全国から名護市長選挙へのカンパ・派遣を要請する「安保破棄FAXニュース」>
http://anpohaiki.news.coocan.jp/index.html
※昨年1月の名護の市長選は、もはや名護市民の選挙運動ではありませんでした。

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続いて、平成22年(2010年)2月24日県議会で「米軍普天間飛行場の早期閉鎖・返還と県内移設に反対し、国外・県外への移設を求める意見書案」が与野党の超党派で議員提案され、全会一致で可決しました。それに引き続き3月19日、県議会では、更に全会一致で沖縄21世紀ビジョンに県議会の意見を取り入れるよう決議し、決議書を仲井真知事に手渡したのです。その結果、県議会の決議を尊重するという理由で、答申では「整理・縮小」にとどめていた文言を、「基地のない平和で豊かな沖縄」と修正し、“基地のない沖縄”を明記されてしまったのです。

■沖縄と本土の亀裂は日本を滅ぼす最大の敵
このように、復帰前も復帰後も沖縄の地元マスコミを含む左翼勢力は、常に沖縄県民の被害者意識を煽るような理論で、基地撤去や安保反対などの国益を損なうような権利を主張し県政を動かし続けてきました。そして、全国のマスコミはそれを沖縄県民の総意のように報道してきたのです。これが沖縄と本土の間に大きな亀裂を生み、日本政府は沖縄を腫れ物にさわるように扱い、国民の一部は沖縄に同情し、一部は安全保障意識の低さにあきれてきたのです。

しかし、この沖縄と本土の亀裂が日本を滅ぼす最大の敵だと自覚しなければなりません。何故なら、沖縄の侵略を虎視眈々と狙い、沖縄で情報工作、政治工作をしている国があるからです。彼らが喜ぶのは、沖縄県民が日の丸を焼き捨て、皇室に火炎瓶を投げつけ、米軍を追い出し、それを見ている本土の人が、沖縄県民にあきれ「沖縄県民は日本人ではない」と思う事です。これで、「離間の計」が完成するのです。その時は、沖縄がまず、他国の植民地になりますが、日本本土も時間差をおいて植民地になる運命が決まってしまうのです。

■日本を守るために、国民一丸となって日本防衛の決戦場「日本国沖縄」を守ろう!
1970年前後は、日米安保の危機でもあり、沖縄が永遠に祖国復帰できなくなるかもしれない危機がありました。そして、40年後の今、再び日米同盟の危機が訪れ、沖縄が中国に飲み込まれかねない危機にあります。この危機を回避するためには、40年前の「沖縄返還協定批准貫徹実行委員会」の活動は方法論においても精神論においても学ぶべき事が多いと思います。

結局当時も今も、政治家を当てにしていては何も解決しないという事は全く同じです。まずは、郷土を愛し、祖国日本を愛する名も無いウチナンチュー(沖縄県民)が沖縄と日本を守るために立ち上がり、全国に向けて声を発信する事です。

そして、全国の皆様が、直接侵略においても間接侵略においても日本防衛の決戦場である「日本国沖縄」を守るために一丸となって共に戦う事です。このように、沖縄と本土が一体となって祖国を守るために戦っている限り、沖縄が他国に奪われる事は無いと固く信じております。

///【資料】///
JSN■平成22年12月19日「日の丸行進」(於:沖縄県那覇市)

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