沖縄県民は、日本で最も郷土を愛している県民だと思います。
これは、誇りにするべき事だと思います。しかし、間違ってもこの郷土愛が祖国を恨む事につながったり、他国の日本弱体化工作に利用される事があってはなりません。
過去、沖縄県民感情がどのように利用されたのか、そして現在どのように利用されているかを知り、同じ失敗をしないようにする事が大切だと思います。
誇りあるウチナンチューなら、先頭に立って、沖縄の未来、日本の未来に責任を持ち、沖縄を支え、日本を支えるべきだと思います。
前回に引き続き、論文:沖縄独立論の諸相 を紹介いたします。
(JSN代表 仲村覚)
■【論文紹介】沖縄独立論の諸相(後半)
■利用された独立運動
沖縄の50年代は日本への復帰運動がうねり出す時期だ。それに抗するかのように、58年11月、琉球国民党(大宜味朝徳総裁)が結成された。蔡璋は副総裁兼渉外部長に納まっている。蔡璋という人物が、なぜ台湾で琉球独立を叫んだのか。また、その運動が可能だったのはなぜか。
50年9月20日付、台北の米大使館から米国務省への電文「台湾在住の沖縄人協会の請願」は、琉球人民協会が大使館を通して米国政府に送った漢文の請願書で、蔡璋の活動の原点が述べられている。それには、琉球がどこかに返還されると言うのならそれは中国であって、日本ではないとし、「さもなくば独立を」と訴えている。つまり、中国への帰属をまず第一とし、次善の策として琉球独立を訴えているわけである。
この文書に添えられた米大使館側のコメントは「琉球人民協会は約250人の会員だがその多くは沖縄出身漁師たちである。この組織は、国民党政府の資金援助を背景にしており、琉球を中国に返せという国民党政府の意思を強く反映している」と付け加えている。琉球人民協会はその設立当初から国民党政府の外交政策の駒の一つであった。
この米国大使館の蔡璋に対する見解を知っていたかどうか分からないが、彼は55年4月18日付でジョン・F・ダレス米国務長官に、沖縄が日本に返還されることに反対する内容の手紙を送っている。
「55年3月31日のニュースによると米国政府は琉球を将来、日本に返還するということを決定したようだが、この決定について琉球の人々は大変な衝撃を受けている。もはや黙っているわけにはいかない。米国の一方的な行動は弱小の民を専制君主に売り渡す行為に等しい」として、「カイロ宣言、ポツダム宣言によって、日本は武力によって侵略した領土を放棄することを宣言しているのであり、かつて独立国であった琉球は当然、独立国として扱われるべきである」と主張している。
この主張は、同時期に中華民国(台湾)から米国政府に対して盛んに行われていた沖縄の日本返還に抗議する内容と一致する。そこに琉球独立運動がなぜ台湾で可能だったかという答えが暗示されている。ダレス国務長官から米大使館への返事には、「蔡璋は沖縄ではほとんど受け入れられていない」と注釈している。
当時の台北の日本大使館側も蔡璋の行動を黙視していたわけではなかった。
55年9月10日付の新聞で日本大使館は、台湾在住の日本国民を掌握するため大使館への日本人登録を呼び掛けた。その対象は「55年10月1日午前零時現在、台湾に居住するすべての日本国民(琉球列島、小笠原諸島、南樺太、千島列島から来た人々を含む)及び二重国籍の人」となっていた。
これに対して、琉球人民協会と琉球革命同志会が緊急声明を新聞に発表した。「この調査は、(琉球人を無理に日本人に組み込み)それによって琉球を再侵略する意図が隠されている。我々はそれを認めるわけにはいかない」という内容だった。
日本大使館側はこの緊急声明を無視し、沖縄出身者に対しては「登録を強制はしない」立場を表明した。この騒動に対して、国民党政府は、公的なコメントを避けているが、国民党政府筋の談話として琉球人に同情を示し「サンフランシスコ講和条約締結後、日本は琉球に対して権利を主張することはできないはずだ」と答えている。
■独立論の破綻
蔡璋は59年4月4日付で「台湾在住の琉球人の保護について」と題して、ブース高等弁務官に手紙を書いている。内容はこれまでの主張を繰り返し、自由世界の維持のために米国民政府に協力したいと述べている。
この手紙に添付された渉外局長のメモに「蔡璋は50年以来、国民党および中華民国政府から資金を得ている」として、蔡璋と国民党政府が共通の主張で結びついていると評価し、高等弁務官が彼に関わるべきでないと強く進言している。同時に、在沖米国領事館、台北の米国領事館とも情報を交換しあい、「蔡璋が代表を務める組織は実態のないもので、台湾在住の沖縄出身者も彼の主張を支持していないことが明白である」と結論している。
このような水面下での確認事項がある中、蔡璋は60年4月7日、米国民政府渉外局を訪れた。そして、6月15日から台北で開催されるアジア人民反共連盟会議に沖縄から二人を出席させるため協力してほしいと申し出た。しかし、「言下に断ったため、むっとして出ていった」。これにも懲りずに、61年3月11日付でキャラウェー高等弁務官に会見申し入れの手紙を書いている。
蔡璋がどのようにして蒋介石と結びついたのか。専門家の調査からその経過を再現すると次のようになる。
蔡璋は日中戦争のときに南京の戦線に送られ、そこで発行されていた『大公報』に「反日・反帝」と題する文を発表したらしい。つまり、日本兵として参戦したが中国側に寝返ったということ。その「反日・反帝」の主張は国民党率いる蒋介石の目にもとまった。蒋介石はいたく感激してそこから出会いが始まった。蒋介石は彼に「中国は動乱の時を迎えている。琉球の解放は民族の解放運動でもあるので、その運動を継続するように」と激励した。蒋介石が台湾に撤退したあと、それに従うように蔡璋も台湾に渡った。
蒋介石は彼に国賓並みの待遇を与えた。国民党兵士を護衛につけ、拳銃の携帯も許されていた。
基陸には封印されたままの当時の資料が残っていた。その中から彼が国民党政府から定期的に資金援助を受けていたことを示す記録も発見された。台湾省琉球人民協会は50年当時300人の会員がいたが、60年代後半には800人まで膨れ上がっていた。
台湾側には当時、アジアの反共軍事体制が崩壊する危機感があった。蒋介石は、それを防ぐための一人物として蔡璋を見ていた。蒋介石は必ずしも琉球の独立に関心があったわけではない。しかし、蔡璋の方は琉球人が亡国の民になりかねないという危機意識が先立っていたから、反共軍事体制という蒋介石の庇護に乗じて沖縄独立を目標とした。
ところが、日米間で沖縄の返還交渉が具体化していく60年代後半に差しかかると、蔡璋の存在は台湾と日本の外交のじゃまになりはじめる。そのころ、大陸からやってきた蒋介石に反感をもつ台湾の独立運動家が日本に潜伏していた。それら台湾独立運動家を日本から追放することと、逆に台湾で沖縄の独立を叫んでいる蔡璋を台湾から追放することで両国が取引合意したのではないかとする見方もある。台湾から必要とされなくなった蔡璋は沖縄に戻り、本来の日本名で新聞や雑誌に投稿して言論活動をしていたが、受け入れられることなく89年6月この世を去った。
仲田 清喜 (なかだ せいき)
1951年沖縄県生まれ。74年琉球大学法文学部を卒業し琉球新報入社。文化部記者、編集委員(英文担当)など経て00年7月文化部長。主な連載「知の回転軸」(94年)、「沖縄人国記」(98年)、「沖縄20世紀の光芒」(99年)、「公文書の記録・USCAR時代」(00年)など。97年ハワイ東西センターで研修。02年4月九州大学大学院へ派遣。