沖縄復帰前の琉球独立運動工作は、中共ではなく蒋介石の中華民国が行っていました。唐淳風のプロパガンダ論文にでてくる「琉球革命同志」というのも、沖縄祖国復帰前に実在した組織の名前です。実は、中華民国は沖縄への工作を行うために「琉球革命同志会」を組織していたのです。
<琉球革命同志会の指令文書(中華民国37年(1948年)9月8日)>http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/37/4ec7fae71bfdd14aaffc6ce7b961570d.jpg?random=dc4d57a5646256741d9773b8825aa833
この時に何が行われていたかを知る事は、琉球独立運動工作のルーツを知ることになると思います。
非常に参考になる、九州大学大学院 仲田清喜助教授の論文を発見しましたので、2回に分けて紹介させていただきます。沖縄の祖国復帰をめぐっては、様々な工作が行われていた事がご理解いただけると思います。
そして、現在も同様に様々な工作が行われているであろう事も推測していただけると思います。
(JSN代表 仲村覚)
第7回 沖縄独立論の諸相
九州大学大学院助教授 仲田 清喜
米軍は沖縄占領の基本となる2つの文書「琉球列島民政の手引き」「琉球列島の沖縄人─日本の少数集団」を携えてきていた。この2つの文書は学者の綿密な研究を基にしたもので、沖縄統治のテキストとして活用された。そこに描かれているのは、沖縄が日本内部の少数民族(マイノリティー)ということであった。確かに沖縄はかつて独立した王国であり、その歴史的事実を根拠にした独立論もあった。しかし、沖縄独立論が大衆の支持を得ることはなかった。その実態は如何なるものだったのか。米国民政府が残した公文書を手がかりに検証してみる。
■浮かんでは消える像
「沖縄は日本に抑圧されてきた」という感情は、明治政府による琉球処分以来連綿としてある。この感情は戦前の海外の日系移民社会にも明確にあり、「これを扇動すれば心理作戦上有利になる」というヒントを米軍に与える根拠となっていた。つまり、沖縄人は本土の日本人に対して心中深い反感をもっているので、その部分をあおってやれば心理操作がうまくいくというわけである。占領の初期から米軍統治者たちはこのテキストを手元に置いて問題を乗り切ろうとした。
沖縄内部における戦後最初の独立論の動きとして1945年12月に東京で組織された沖縄人連盟がある。現地沖縄では47年6月に結成された沖縄民主同盟、50年に結成された共和党も沖縄独立を訴えた。58年11月には中華民国(台湾)の蒋介石政権の支持を得た琉球国民党が結成され沖縄独立を主張した。しかし、いずれもごく少数の主張で、日本へ復帰したいという大きな民衆意識の流れの中では真剣に顧みられることはなかった。「アメリカ世」の間、沖縄独立という夢はくすぶり続け、日本復帰が具体的になった69年になっても独立を主張する琉球議会が結成され、また、70年にはその主張をストレートに打ち出した琉球独立党が結成されている。
■蔡璋という人物
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(台湾を拠点に沖縄独立運動を展開した蔡璋(右)=又吉盛清氏所蔵)
さて、1950年代から60年代初頭にかけて、沖縄独立を主張する「蔡璋」という中国名の人物が米国民政府渉外局文書に度々登場する。台湾・基陸を本拠にして、沖縄の独立運動をしていた人物だ。54年11月4日付の米国務省から台北の米国大使館に報告書が送られた。それは、蔡璋という人物に関する身辺調査書だった。
「蔡璋は、16年4月5日ホノルル生まれ。幼少のことは不明だが、父親の仕事の関係で東南アジアやサイパン、テニアンなど移り住んだようだ。現住所は台湾基陸市中正三路勝利巷五五。第二次世界大戦後すぐに台湾にやって来て、台湾省琉球人民協会と琉球革命同志会を組織した。後者は琉球の独立を主張し、日本への返還に反対している」
この文書のなかで、51年9月に彼が友人に宛てた手紙の内容にも触れている。それには、琉球と中国は二千年に渡って一体であり、日本の再侵入(日本復帰)に対しては死をもってでも抗議する。琉球は中国(ここでは中華民国=台湾)に帰るか、自由と独立を与えられるべきである、と書かれていた。
蔡璋は、51年2月を皮切りに、頻繁に台湾と沖縄を行き来するようになる。52年2月に、沖縄に反共組織を作ろうとしたが成功しなかった。
54年6月15日に韓国で開催されたアジア人民反共連盟会議には、台湾在住琉球人代表という肩書きで参加している。同年10月には再び反共組織結成のため沖縄に帰り、次回の台湾での連盟会議には沖縄から代表を送り出す努力をしている。この時、同意する人たちによって沖縄連盟支部の設立が決まった。しかし、この計画は米国民政府に押し止められている。蔡璋が台湾政府の資金援助を受けていることについて、日本政府が快く思っていないことを非公式に表明していたからだ。前述の文書には「国務省としては、大使館員の蔡璋への接触は最小限にして、関わり合いのない立場を維持するように」という指示が添付されている。
(後半に続く)
仲田 清喜 (なかだ せいき)
1951年沖縄県生まれ。74年琉球大学法文学部を卒業し琉球新報入社。文化部記者、編集委員(英文担当)など経て00年7月文化部長。主な連載「知の回転軸」(94年)、「沖縄人国記」(98年)、「沖縄20世紀の光芒」(99年)、「公文書の記録・USCAR時代」(00年)など。97年ハワイ東西センターで研修。02年4月九州大学大学院へ派遣。