昨日の続きです。
当時の沖縄と日本政府が、どれだけ沖縄と日本を近づけようと努力を積み重ねてきたのかがよく理解できる動画です。
「大田政作」という政治家の名前は子供の頃よく耳にしていたのを覚えています。しかし、このような方の力で、復帰前の沖縄でも本土とそうかわらないテレビを見ることができたのだと初めて知りました。
当時の日本政府と琉球政府の方々に深い感謝の念いがでてくる動画です。
是非、ご覧ください。
(JSN代表 仲村覚)
<「国旗の重み:沖縄の東京オリンピック」第二話>
奇跡的な復興を遂げた祖国の威信をかけた一大イベントを本土の人と同じようにリアルタイムで味わいたい。
それが沖縄の人々の、もう一つの願いでした。
この当時、沖縄では、本土のテレビ番組(NHK)は録画でしか見る事が出来ませんでした。
東京からの距離が1540キロもあれば、当然、まともな電波が届くはずがありません。
しかし、この望みを叶える事が出来る技術が、当時、一つだけありました。
それが、マイクロウェーブ回線です。
簡単に説明すると、放送局同士をマイクロ波を用いた高速回線でつなぐことにより、キー局の放送する番組を、地方でも安定して受信できる。というものです。
1954年に東京-名古屋-大阪間に開通したばかりで当時の最新技術でした。
しかし、このラインを遠方の沖縄まで延長するとなると見上げるハードルは並の高さではありません。
沖縄から日本政府と公式折衝に当たったのは、太田政作行政主席。
行政主席とは当時の琉球政府の行政府の長で、今の日本でいう総理大臣にあたる職務です。
メディアを通して日本との心理的な距離感を縮め、沖縄を「文化的に発展」させようというのは、
当時の琉球政府の指導者らに共通した思考でした。
後に太田はこう書いています。
「東京~沖縄間の距離は1540キロであるが、マイクロの世界では、わずか200分の1秒に短縮される。これは私が当時心に描いていた日琉一体化の構想にもうってつけである。」
オリンピックに向けて「日琉間マイクロウェーブ回線事業」が始動しました。
沖縄援助計画の一つとして始動したこのプロジェクトに日本史府は当時の金額で10億円という巨費を投じました。
さらに日本政府はこの事業の為に特別立法まで制定してプロジェクトを推進させました。
そして、オリンピックの開催まであと1年と迫った1963年9月、
日琉間マイクロウェーブ回線設備が完成しました。
装置は整えられました。
しかし、未だ開通のめどは立っていなかったのです。
問題は山積みとなっていました。
テレビ局の回線使用割り当て、
日琉間の分収率配分の問題、
そして、米側との交渉・・・
問題は一向に解決に向けて進もうとしませんでした。
沖縄住民の世論は悲痛な声を上げていました。
「オリンピックに間に合わない。。。」
太田行政主席は日本政府だけでなく米軍の3人の歴代高等弁務官をも交渉の相手としました。
今更ながら高等弁務官について簡単に説明すると、
米大統領の承認を得て国防長官が陸軍将官から任命する当時の沖縄の絶対君主的なものです。
絶対君主とはまた大げさなと言われそうですが・・・
とりあえず高等弁務官のチート過ぎる職務権限を見てみましょう。
・行政主席や琉球上訴裁判所裁判官の任命権
・琉球政府全職員の罷免権
・琉球政府立法院が制定する立法の拒否権
おわかりいただけたでしょうか?
司法・行政・立法の三権全てを掌握していました。
1950年代以降、米軍はマスメディアを住民への広報・宣伝活動統治の効率化に不可欠な要素ととらえていました。
米軍はNHK番組(録画放送)を減らし、米軍も含めた琉球側の政策番組を増やすなどの情報操作を行っていたのです。
ここで少しだけこの交渉に臨む太田政作氏の紹介をさせてください。
出身は沖縄県国頭郡国頭村。
早稲田大学在学中に高等文官試験に合格しています。
高等文官試験とは、試験に合格すると、行選管、外交官、領事館、判事、検事に登用される資格が与えられるという戦前のスーパーキャリア試験でした。
地裁の判事や検事局の検事を歴任し、台湾の5州3庁の一つ、ほう湖庁の長官として終戦を迎えます。
戦後は熊本で弁護士をしていましたが、1957年に当間重剛主席に請われて沖縄入りし、すぐに副主席に就任しています。
2年後の1959年、沖縄の保守勢力が結集して沖縄自由民主党が結成されると、総裁として迎えられました。
説明が長くなってしまいましたが、要約すると希代の切れ者、沖縄返還後、沖縄の復興に尽力した功績を称えられ勲二等瑞宝章を授章しています。
弁護士、検事、判事の経験者である大田主席にとって、交渉ごとは存分に本領を発揮できる舞台でした。
ブース高等弁務官は太田市の予想に反してあっさりと了承しました。
しかし、次に着任したキャラウェイ高等弁務官は様々な形で美国民政府の管理権を確保しようとしてきました。
時系列でいうとマイクロウェーブ改正の装置が完成したのは、このキャラウェイ高等弁務官の時期です。
キャラウェイ高等弁務官は歴代の高等弁務官の中でも強硬派としてしられており、高等弁務官の強権を惜しみなく発動しました。
彼がやり過ぎたせいで住民の反感を招き、米国は沖縄統治に失敗したといわれるほどの人物です。
交渉は難航します・・・
オリンピックまで残り100日をきりカウントダウンが始まりました。
そして、聖火の沖縄入りまで残すところあと1ヶ月となった1964年8月1日。
ワトソン高等弁務官が着任しました。
彼は前任のキャラウェイ高等弁務官の強硬姿勢を改め、柔軟路線で対応した事で有名な高等弁務官です。
前任者の強権乱発は「キャラウェイ旋風」とよばれており、沖縄の保守派も親米派もバラバラに分裂。
沖縄は混沌と化していました。
そのせいで米軍の沖縄とうちの継続はすでに危ぶまれていました。
ワトソン高等弁務官は、琉球政府への権限の委譲を積極的に行うなどして、対米感情の改善に努めました。
この柔軟路線のワトソン高等弁務官が着任した日を境に、事態は急速に収束へと向かいます。
そして・・・
1964年9月1日 午前9時
日琉間マイクロウェーブ回線開通式が行われました。
聖火の沖縄入りは、もう5日後に迫っていました。
このラインはオリンピックの同時中継を可能にするものでした。
「間に合った!」
この事業に関わった関係者、そして住民たちの歓喜のほどは私がここで述べるまでもありません。
終戦から19年・・・
立派に甦った日本の晴れの舞台の会場に翻る日の丸に、
沖縄の住民もリアルタイムで感動するための環境が今ここに整えられたのです。
約13年間、米軍の準機関士「星条旗」の記者をつとめ、後に米軍占領史研究者となった宮城悦二郎氏はこの日のことをこう言いました。
「テレビの『本土復帰』を果たした日」
次回へ続く・・・