■世界華人保釣連盟が尖閣諸島に集結する「沖縄返還協定調印」日
皆様ご存知のように、今年6月17日には、世界華人保釣(釣魚島防衛)連盟が尖閣諸島に集結する事が予定されています。何故、かれらは6月17日を選んだのでしょうか?
彼らが言うには、今年の6月17日は日米間で「沖縄返還協定」が調印され、不法に日本に領土が奪われてから40年目の日であり、その日に尖閣問題解決の決意を示すとの事です。つまり、昭和46年(1971年)6月17日が沖縄返還協定が調印された日であり、その翌年の昭和47年(1972年)5月15日に沖縄が祖国復帰したわけです。彼らのプロパガンダと戦うには、沖縄返還協定、沖縄祖国復帰、その歴史的意味をしっかりと理解していく必要があると痛感します。
今年の5月15日は祖国復帰39周年になりますが、来年の40周年を迎える前に、沖縄の祖国復帰とは何だったのか原点にかえる事がとても重要だと思います。支那のプロパガンダやその手先となった沖縄に集中する左翼勢力と戦い、日本を自立国家として再建させるためには、沖縄返還の意味を正しくとらえる事が必須だと私は思っています。
まずは、沖縄にとって祖国復帰とは何だったのか?
次に、日本にとって沖縄返還とは何だったのか?
更に、日米関係にとって沖縄返還とはなんだったのか?
また、あまり考えた事は少ないと思うのですが、日中関係、米中関係にとって沖縄返還とは何だったのか?
これらの事について考える事により、尖閣諸島の問題の本質が見えてくると思います。
そういう中、沖縄の祖国復帰の原点を理解させてくださる、すばらしい動画が昨年末にアップされていました。
「国旗の重み:沖縄の東京オリンピック」
<YOUTUBE>
作成者の方、本当にすばらしい動画ありがとうございます!
沖縄県民必見の動画だと思います。
また沖縄県外の方にも、日本と異なる沖縄の戦後史を理解する良い動画だとおもいます。
字幕も文字お越ししましたので、動画をご覧いただけない方も是非下記文章をお読みください。
今回は4本のうちの1本目をご紹介します。
(JSN代表仲村覚)
<「国旗の重み:沖縄の東京オリンピック」第一話>
皇太子殿下ご結婚のニュースに日本中が湧いた昭和34年。
この年、5年後に開催される第18回オリンピックの開催地が決定しました。
第18回オリンピック競技大会、その開催地に選ばれたのは東京!
敗戦の傷手から奇跡的に立ち直った日本が平和的な民主主義国家として国際社会に復帰する晴れの舞台。
このオリンピックは、日本の戦後復興を示す国家目標として位置づけられる事になったのです。
開催地が決定した直後から、沖縄側は聖火リレーを沖縄でも実施するように関係機関に働きかけ始めました。
当時沖縄は米国施政権下にあり、日本の「潜在主権」のみが認められているという非常に曖昧な領域でした。
問題は簡単ではありませんでした。
当時、米国、特に在沖米軍が最も恐れていたのが、沖縄、日本国内の沖縄返還の世論が高まることだったのです。
1945年の沖縄上陸直後に沖縄において日本国旗の掲揚と国家の斉唱・演奏が禁止されました。
1949年の集成刑法では、日本国旗だけでなく、米国旗以外の国旗の掲揚まで禁じられました。
講話条約発効の1952年になってやっと個人の家屋や政治的な意味をもたない私的な会合における日の丸の掲揚が認められましたが、沖縄の長期保有を前提としていた米国は沖縄県民の祖国愛を抑えようと苦心していたのです。
当時の外務大臣、小坂善太郎は、沖縄で米軍が禁止していた学校における日の丸の自由掲揚を許可するよう、以前から何度も米国側に働きかけていました。
しかし、ブース高等弁務官の返答はNOでした。
「我々は琉球を、日本とのパートナーシップや信頼において統治しているのではない」
「どのような国旗も、絶対の政治シンボルとして、すべての人々に強い国民的感情を正当なものとして呼び起こさせる」
1961年小坂外相鵜は米国務長官や大使と会談した際、次のような事を言いました。
「日本政府は琉球の日本返還を求めてはいないが、復帰要求を抑えるために、琉球の生活水準を向上させる事が決定的に重要である。」
小坂外相は同じ席で沖縄への日本政府援助の拡大や教育指導計画を持ち出しました。
しかし、過敏になっている米国側はそれすらも日本側の領土野心の現れではないかと警戒の色を示したのです。
これに対し小坂外相は、こう言わざるを得ませんでした。
「日本政府は米国施政権を妨害するつもりも『少しずつかじっていく』つもりもない」
すみません・・・自分で書いていて何を言いたいのかわからなくなってきましたが、当時の沖縄を巡り、日本、米国で非常に繊細な政治的駆け引きが行われていたという雰囲気が皆さんに伝わっていたら私の目的は達成です。
そんな状況の中で、東京オリンピックの聖火リレーを沖縄で実施したいという沖縄側の要望が、米国にさらなる警戒を与えるのは目に見えていました。
しかし、沖縄の人たちも簡単には諦めません。
祖国日本が復興を果たし、世界の晴れ舞台に立つこの大イベントになんとしてでも参加したい。
祖国との一体感をもっと身近に感じたい・・・
沖縄側は積極的にオリンピック東京大会組織委員会に働きかけ続けました。
1953年、沖縄体育協会が日本体育協会の支部として承認を受けていたのです。
しかし、その根拠だけでごり押しすることは可能なのでしょうか?
1962年7月4日
聖火リレー特別委員会が決定を下しました。
「国内聖火リレーは全都道府県をカバーすること、走者は青少年で、日本最初の着陸地は沖縄とする」
「我々は日本に見捨てられていない」
沖縄の人々は、米軍占領下にあるにもかかわらず、日本の国土と認められ、聖火の国内第一歩をしるす地に選ばれたことを、「よき日本人」としての資質が試される機会と受け止めました。
沖縄リレー実行委員会美化小委員会は、新生活運動推進協議会や沿道市町村とともに、聖火コースの美化を住民に訴えました。
そして、全琉一斉に清掃運動を展開し、保健所では清掃要領を発表して、恥ずかしくない沖縄を演出しようと努めたのです。
でも、区切りが良いようなので、また次回お話しします。
(第二話へつづく)