JSN■ついに始まった、シナの沖縄侵略プロパガンダ(中国紙論文全訳)

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JSN■ついに始まった、シナの沖縄侵略プロパガンダ(中国紙論文全訳)

以前、琉球復國運動基本綱領という工作文書を紹介しました。

冗談のような文書と感じられた方もいらっしゃたと思いますが、その後、9月19日に「沖縄は日本が不法占領」という論文が発表されたとの記事が産経新聞に掲載されました。

<中国紙、「沖縄は日本が不法占領」との論文掲載>
http://sankei.jp.msn.com/world/china/100919/chn1009192131008-n1.htm

その原文サイトは次のサイトです。
<唐淳风:日本没有资格与中国谈钓鱼岛>
http://opinion.huanqiu.com/roll/2010-09/1112184.html (リンク切れ)

唐淳风:日本は中国の魚釣島について話しあう資格はない。>

この文章を訳してくださったサイトがありましたので、転載いたします。私たち日本人には、このような全くデタラメな論文が実際の社会で通用するとはとても思えません。しかし、おとなり中国では、このようなデタラメなプロパガンダこそが中国共産党の権力の源である事を知らなければなりません。

実は驚く事に、既にこのプロパガンダが嘘ではないと証明する工作施設が沖縄にはたくさん作られ、そこは中国人観光客のコースとなっています。つまり、中国人観光客が「なるほど、琉球は中国の属国だ!」と納得させる観光コースが沖縄には造られているのです。このあらゆる所に手をかけた工作の努力を見ると、中国共産党が本気で沖縄を属領化しようとしている意図を感じざるを得ません。

「沖縄は日本が不法占領」という論文は、日本人にはばからしくて相手にもされない論文です。しかし、私たち日本国民は、これが中国国民の共産党への不満を沖縄にそらし、実際の武力行使に動くための、国内向けプロパガンダ工作であることを知らなければなりません。

先日、中国出身者の反共産党グループの方々とお話をする機会がありました。そこで、彼らは次のような事を言っていました。「北京オリンピックが終わり、上海万博が終わった後、国民の共産党への不満をそらすものは、尖閣諸島、沖縄しかない。」細かい解説は、あらためて行ないますが、今回は本文を御覧ください。

(JSN代表 仲村)


<訳文転載元>
http://kinbricksnow.com/archives/51481894.html

1879年の琉球出兵前の中国地図に注意して欲しい。中華琉球王国は一貫して中国朝廷直属の独立王国であった。琉球は日本から遠く離れた東シナ海の果てにあったのだ。

釣魚群島(尖閣諸島)にいたっては日本から1000キロ以上も離れた、中国大陸の大陸棚の端に位置している。琉球との間には深さ3000メートルもの琉球海溝もある。地質の構造から見ても、歴史的な帰属から見ても、そして国際海洋法の規定から見ても、琉球とは無関係だ。日本政府は琉球を使っても、釣魚群島を自国領土に関連づけることはできない。

さらに問題のカギは「琉球は日本の領土ではない」という点にある。日本には釣魚群島と東シナ海問題をめぐって、我々と対話する資格はないのだ。

琉球と大陸朝廷と関係があったその他属国と異なる点は、琉球の国民は大部分が福建省、浙江省、台湾沿岸の住民だったという点にある。祖国大陸とは血筋においてつながっているのみならず、言葉や文字は中国語であり、儀礼や制度も大陸朝廷と完全に一致している。

さらに一貫して自国が大陸朝廷の一部であることを忘れることなく、政治的には完全に朝廷に服していた。たとえその野心をたくましくしたとしても、朝廷に王として封じられ国を建てることにとどまっていたのだ。

歴史的記述によると、琉球王国住民は自力で海を越え渡った大陸同胞以外にも、一部隋唐時代の朝廷に派遣された者もいる。隋唐時代の琉球は大陸にとって対外貿易の重要な窓口であり、その建設と発展を支持していた。隋朝は琉球当局の求めに応じて、現代中国の経済開発区建設と同様、琉球を国家建設の重要拠点としていた。政策的、資金的な支援の他に、さらに福建省から優れた職人を招聘し琉球に派遣、建設事業に参加させた。最大で1度に2000人が派遣されたという。福建省に住んでいた36もの一族はみな人員を派遣している。後の琉球住民は閩南36姓(おそらく久米三十六姓のこと)であることを誇りとしていた。政府が派遣した、職能を持った人々である証明だからだ。

日本は長年にわたり、琉球をその版図に加えたいと熱望していた。しかし薩摩藩の侵略にも倭寇の襲来にも琉球王国は動揺することはなかった。明治維新後、日本は強大化した国力を背景に琉球国王を捕らえ、東京へと連れ去った。日本に帰順するよう脅迫したが、しかし目的を達することはできなかった。もはや策がなくなった日本は、1879年3月、派兵して琉球を占領する。

その後、清朝と交渉し、琉球の主権割譲を迫った。しかし光緒帝と李鴻章は強い態度で抵抗し、さまざまな手段を尽くして日本を批判、琉球から撤退させようとすると同時に、いかなる形式の琉球主権の割譲協議をも拒否した。日本人に買収された一部の軟弱者はいたが、李鴻章は「琉球は東シナ海の貿易である。もし日本人の欲しいままにさせれば、必ずや我が方の戦略的安全保障に危険を及ぼすだろう」との理由で一切の協議を拒んだ。

1945年の日本敗戦後、「無条件降伏文書」「カイロ宣言」「ポツダム宣言」により、一切の不法に占領した領土から退出することが決まった。琉球も日本支配を離れ、独立することとなった。1971年の米中接近により、米国は中国が琉球の主権を回復した後、軍事基地を置く場所がなくなることを不安視した。日本も米軍の存在というチャンスに乗じて、米国の後を継いで琉球の管轄権を確保しようと考えた。

当時、米国はまだ台湾と断交していなかったため、中華民国に再三、次のような弁明を行っている。「(米国は琉球の主権を有していないため)日本に主権を移譲したわけではない。たんに行政管理権を日本に移しただけである」、と。米国の決定をくつがえす力がなかった琉球人は、数万人が中心広場に集まり号泣した。そして日本の侵略者を追い出そうと誓ったのだった。

30年以上が過ぎたが、日本を追い払い独立を勝ち取ろうとする戦いが中止されたことはない。2006年3月4日、琉球全市民の住民投票が行われ、75%が独立し、中国との自主的な往来を取り戻す選択に一票を投じた。残る25%は日本の血をひいていたため、独立を要求することはなかったが、しかし自治に賛成票を投じた。これからもわかるとおり、日本の琉球支配にはまったく合法性がない。合法性を獲得する唯一の道は中国政府と交渉すること。琉球問題に関する協議に中国を調印させ、琉球支配権の承認をだまし取ることしかないのだ。

東シナ海の油田問題や釣魚群島の帰属問題でたびたび問題を起こすその目的は、中国政府を交渉のテーブルに着かせるため。琉球の民意を無視して領土確定協議に調印させることにある。もし東シナ海のガス田と釣魚群島の主権が中国に属するものとして調印されたとしても、それは境界線外にある琉球の主権が日本にあると認めることになる。こうなれば日本の琉球占領は合法的な根拠を得て、琉球民衆の独立要求は鎮圧されることになる。「日本政府はどんな資格をもってして、琉球の境界や東シナ海及び釣魚群島(尖閣諸島)の帰属について話すのか。どんな資格で我々の漁船、我々の漁民を捕らえるのか。その唯一の歴史的な根拠は琉球を侵略し、占領したことにある。日本はまさに侵略期(日中戦争期)に実現できなかった妄想を現実のものにしようとしている。その狙いは我が国が大海に出る通り道を切断し、中国が遠洋へと向かう扉を永遠に閉ざすことにある。

(転載終わり)