琉仏条約プロパガンダが琉球新報の社説に格上げになりました。
琉仏条約プロパガンダとは、《幕末に琉球はとフランスと条約を締結した。だから、琉球は主権国家であったから、強引に行われた琉球処分は国際法上違法である。》というプロパガンダです。
その原案となった文書がみつかり、オークションにかけられているとのことです。
それについて、玉城知事は、沖縄県としてもどうにか入手できないかと語ったとのこと。
もし、沖縄県がそれを入手すると、
沖縄県の地方外交や最高裁の判決を守らないことの正当性を訴える根拠として利用されるものと考えられます。
そのような条約が合ったことを知っている日本国民は非常に少なく、そのような主張をされると、反論が困難です。
おそらく、日本政府や官僚で反論できる人は皆無といって良いのではないでしょうか?
では、幕末の沖縄の帰属はどうだったのか?
琉仏条約はどのようにして締結されたのか?
その時、薩摩はどのように関与したのか?
徳川幕府はどうかかわったのか?
現在の日本史では、全く触れられておらず、ブラックボックスとなっています。
本当の歴史を知らず、歴史戦を戦うことはできません。
これは、今後、沖縄を分断するために仕掛けてくる歴史戦の肝となることはあきらかでしたので、琉球新聞の社説、ニュースと、それに対する私の史実に基づいた反論を掲載いたします。
その史実の中で、最も重要なのが、1844年、フランスの軍艦の来琉に対して、五代秀堯が琉球に派遣される薩摩の警護兵に献策した「琉球秘策」です。
下に口語訳、と原文のPDFファイルのリンクを掲載しておきます。
<超重要史料> |
琉球秘策-口語訳 |
琉球秘策(原文) |
まずは、琉球新報が発信しているプロパガンダニュースをご一読下さい。
琉球新報社説 琉仏条約「原案」琉球の外交、今でも学びに(琉球新報 2023年11月19日)
琉球国が1855年に琉仏修好条約を結ぶ際、フランス側に渡した国書や条約の原案とみられる文書が見つかった。東京都でのオークションに出品される。主催する東京古典会の関係者によると、国書にある「琉球国印」や内容などから原本の可能性が高い。
琉球国は54年に米国、59年にオランダとも同様の修好条約を結んだ。当時の大国から琉球が国際法の主体である国家と見なされていた証しだ。
欧米列強がアジアに進出する中、琉球は国内の平和維持に苦慮しながら外交権を行使していた。内容からは外交で危機打開を追求した姿が浮かぶ。台湾有事をにらむ軍備強化が進む中、県が地域外交を展開する今の沖縄と重なる。学べる点は多い。
琉仏条約は両国人民の友好、商品の自由購入の保証、土地・家屋・船舶などをフランスが借りることなどを定め、琉球王国の印とフランス側代表ゲラン提督のサインがある。フランスは条約締結後、中国でのアヘン戦争でフランス艦船が限られる中、琉球との交易よりも日本との通商を優先し条約を批准しなかった。
今回見つかった国書とみられる文書は、3隻の艦隊を率いて琉球を訪れたゲラン提督に琉球国代表が宛てた3通と、フランス皇帝ナポレオン3世に宛てた1通。専門家は、当時の日本では用いていなかった国印を琉球が先駆けて使い、国際社会で明確に国家意思を示していたと評価した。
条約は11条だが、原案は10条で、調印までの外交交渉が条約内容に影響を与えた可能性がある。従来の通説は、圧倒的に強いフランスが一方的に押し付けた条約という解釈だが、琉球の独自外交で譲歩を引き出した可能性がある。
実際、フランスの土地購買権を拒否している。46年にもフランスの艦隊が運天港(今帰仁村)に来航し条約締結を求めたが断った経緯もある。
54年の琉米修好条約では、約3カ月前の日米和親条約で日本が米国に領事裁判権などを認めさせられたのに対し、琉球は、米兵による女性への暴行事件(ボード事件)の経験を踏まえ、逮捕権を毅然と要求し盛り込ませている。琉仏条約でも第10条で、琉仏両国の違法者はお互いの法で処罰すると規定している。不平等な現在の日米地位協定の抜本改定を米国に求めない日本政府とは対照的だ。
79年の琉球併合(「琉球処分」)の際、琉球は琉米・琉仏・琉蘭の3条約を盾に諸外国へ併合の不当性を訴えた。当時の国際慣習法と照らし、琉球併合は不正だったと複数の国際法学者が指摘している。
今回の文書はオークションにかけられる。玉城デニー知事は「非常に貴重な原本。沖縄県としてもどうにか入手できないか」と語った。3条約含め琉球が外交面で自己決定権を行使した証しだ。本来沖縄のしかるべき機関が保管し、沖縄の自己決定権を展望する貴重な原石の一つとすべきだ。
【琉球新報】琉仏条約、仏にも原本 「琉球は独立国」認識
琉球国が1855年にフランスと交わした琉仏修好条約のフランス側の原本が、フランス・パリ東部に隣接するヴァンセヌ市の海軍公文書館に保管されていることが7日までに分かった。琉球国は前年の54年に米国と、59年にはオランダと同様の条約を締結した。
フランスを合わせた3条約の琉球側の原本は現在、外務省外交史料館に保管されている。フランス側の原本が確認されたことで、フランスは当時、琉球国が主権を持つ独立国家と認識していたことが裏付けられた。
フランス側の原本は、フランス科学研究センター名誉教授のパトリック・ベイヴェール氏が確認、2013年に写真撮影した。
条約原本の大きさは、外交史料館にある原本(縦約36センチ、横約38センチ)とほぼ同じとみられる。表紙はなく全4枚で、漢文と仏文で書かれ、琉球王国の印と、フランスのゲラン提督のサインがある。ゲラン提督の航海史料の中につづられているという。条約は11カ条で構成。両国人民の友好、商品の自由購入の保証、土地・家屋・船舶などをフランス側が借用することなどをうたっている。第10条では、琉仏両国の違法者はお互いの法で処罰すると規定している。フランスは条約を批准していない。
琉球側の原本については、琉米条約、琉蘭条約とともに74年5月に明治政府によって没収され、外務省が保管している。これら修好条約3原本は27日から浦添市美術館で展示される。
国際法の専門家は「3原本は琉球が当時、国際法の主体として主権を有していた証し」と指摘しており、今回フランス側の原本が確認されたことで、沖縄の自己決定権拡大や「主権回復」を求める議論に影響を与えそうだ。(新垣毅)
フランス軍艦来琉の危機から始まった明治維新
そもそも、上のようなプロパガンダに騙されるのは、明治維新はペリーが浦賀に来港してから始まったという誤った歴史を教えられていることにあります。
https://www.matsudairatadakata.com/ryuukyuu/ |
松田政策研究所チャンネルの特番『沖縄防衛対策シリーズ 第6回で、「フランスの軍艦来琉の危機から始まった明治維新」この歴史捏造と本当の幕末の歴史を解説しています。
沖縄の歴史のみならず、明治維新の認識が大激変する内容ですので、是非御覧ください。
番組で使ったスライドも全て掲載しておきます。
【スライド全部(PDF)】フランス軍艦来琉の危機から始まった明治維新
最後に、国際歴史論戦研究所に寄稿した、五代秀堯の「琉球秘策」についての論文を掲載いたします。
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