■当時の東アジアの安全保障環境を理解せずして「琉球処分」は語れない
戦後の日本は憲法9条を信奉した教育を受けたため概して安全保障的概念が欠如しています。
そのため幕末や明治維新の歴史を学んだとしても年表通りに学び、日清戦争までは日本の内政改革について学び、続いて日清日露戦争について学ぶようになっています。そして明治政府が沖縄県を設置した「廃琉置県」を「琉球処分」という言葉で学び、沖縄県民が被害者のようなイメージを受けています。
しかし、「琉球処分」の行われた時代は、日本は西洋列強の植民地にならないために必死に近代化を急いでいました。
ましてや更に弱小国である「琉球国」の存続などは風前の灯の中にあったのです。
仮に「琉球処分」が行われなかったとしたら、琉球国は西洋列強のどこかの国の植民地になっていたはずです。
アヘン戦争後の琉球は、フランス、イギリス、アメリカなど西洋列強から日本開国の拠点、東アジア貿易の拠点として狙われていたのです。
当時の沖縄が置かれていた環境を理解する事によって「廃琉置県」「琉球処分」の本当の意味が見えてくるのだと思います。
参考に当時、フランスと米国がどのように沖縄に開国の圧力をかけてきたのか具体的な事例をご紹介したいと思います。
■アヘン戦争後、フランスは清国に琉球の割譲を要求していた
1842年8月29日、イギリスと清国南京条約に調印し、阿片戦争は終結しました。この条約で清は多額の賠償金と香港の割譲、広東、厦門、福州、寧波、上海の開港を認めました。
それに遅れをとりたくないフランスは、1844年清国に使節団を送り10月24日に南京条約と同様の黄埔条約(こうほじょうやく)を清朝政府に認めさせました。
この時に使節団は条約交渉の際に琉球を取り上げています。
清国がイギリスと再度戦争することになればフランスは清国を援助することを表明したものの、清国が清仏同盟条約案を提起すると、逆に清国を援助するための代償基地として一定の地域をフランスへ割譲するよう要求しており、その地域のひとつに琉球も含まれていました。(1)
更に、フランス以外の列強諸国に琉球諸島を譲渡させないことを清朝政府に提示しましたが幸い双方とも拒否されました。(2)
もしこの時に清国が拒否しなければ香港がイギリスの植民地になったように沖縄はフランスの植民地になっていたのです。
■沖縄を日本開国の拠点と狙いを定めていたフランス
フランスが清国と南京条約と同等の黄埔条約(こうほじょうやく)を締結した前後にフランスの艦隊は琉球に条約締結を求めて寄港しています。
実はこの時フランスは琉球を東アジア進出の中継拠点として琉球を重要視していたのです。
日本と通商をしたいフランスは琉球が日本と交易しているところに目を付け琉球商人を介してフランスの商品を日本に販売する構想をもっていました。
また、ローマ教皇庁の指示のもとに琉球ルートによる日本再布教計画が立てられ、宣教師の対日中継基地として琉球を位置づけていました。
これは以前朝鮮ルートで宣教師の日本入国が失敗に終わったため琉球ルートへ計画変更が行われていたのです。(2)
このように西洋列強の開国の圧力は、日本に先んじて琉球から始まっていたのです。
■フランス軍艦の来琉(1回目):デュブラン艦長
このような計画を持ってフランスは琉球に3回来航しています。
初回は黄埔条約(こうほじょうやく)を締結する前の1844年4月28日、フランス東洋艦隊のアルクメーヌ号(乗員230名)が那覇に入港しました。
デュブラン艦長は、通信、貿易、布教の3項目の受け入れを要求しそれを断られると、後日セシル提督が来琉予定である事を伝え、通訳官の琉球語習得のためとの名目でフォルカード神父と清国人伝道士高(カオ)二人を上陸させ残して去って行きました。(3)
フランス人宣教師のフォルカードはその後2年間琉球に滞在し、琉球当局の厳しい監視のもとで琉球語の習得に努めるとともに布教を試みることになります。(4)
滞在中に彼は6000語以上の琉仏辞典を著しました。(5)
■フランス軍艦の来琉(2回目):セシーユ提督
1846年5月2日、フランス艦サビーヌ号が那覇に姿を現し近海の測量や那覇・首里の探査を試み、5月31日、北部の今帰仁間切へ向けて出航しました。
6日後の6月6日、フランス東洋艦隊のビクトリューズ号とセシーユ提督の乗船クレオパトール号(乗員500人)が那覇港に姿を現し琉球に滞在していた通訳フォルカード神父ら二人を乗せて今帰仁へ向かい、3隻のフランス艦隊が今帰仁の運天港に終結することになりました。
6月17日から7月14日までの約1ヶ月間もの長い間、3隻の艦船の姿で威圧を与えつつ琉球に条約の締結を迫ったのです。(6)
この交渉で、特筆することは、セシーユ提督が琉球駐在の薩摩役人にも言及し琉球が薩摩の支配下にあることを見抜いている事、ヨーロッパとの貿易のメリットを強調しながら案に薩摩の厳しい支配から脱却することを勧告していること、更にイギリスの琉球占領の意図を伝え暗にフランスの保護下に入れば琉球の安全が保証されることを示唆していることです。
要するに条約締結を要求するセシーユ提督の最終的な狙いは、琉球を保護国としてライバルのイギリスと対抗するための拠点を築くことであったと思われます。
琉球は巧みな引き伸ばし戦術を駆使して条約締結に全力を尽くし、7月17日に琉球当局の説得に失敗したセシーユ提督は3隻のフランス艦を率いて運天港を離れて長崎にむかいました。(7)
■フランス軍艦の来琉(3回目):ゲラン提督
9年後の1855年11月6日ゲラン提督率いるフランス艦隊が来琉しました。
ゲラン提督の条約交渉はこれまでにない暴力的で威圧的なものでした。
3日目の交渉も難航しているところに、土地住宅の借入と領事館と商人の駐留を要求してきました。
5回目の交渉で引き延ばそうとしたところをゲラン提督は激怒して兵士に建物を包囲させ刀を突きつけて条約に署名をさせました。(8)
この条約の内容は1年前にペリーと締結した琉米修好条約締結よりも不利なものでした。
琉仏修好条約の第二条条には土地家屋の貸借の規定があるという事は、琉球へのフランス海軍の軍事施設の設置が可能となっているということです。
この背景にはフランスが極東において戦争をする時の軍事拠点として琉球を確保しておきたいという考えがあったと推測できます。
(続く)
(1)清末中琉日関係史の研究 京都大学学術出版会 西里 喜行著 P105
(2)論文 19世紀中葉のフランス極東政策と宣教師~劉物条約締結をめぐって~
沖縄県立向陽高等学校 地歴科教諭 上原令著
(3)沖縄県の百年 山川出版社 金城正篤、上原兼善、仲地哲夫、秋山勝、大城将保著
(4)清末中琉日関係史の研究 京都大学学術出版会 西里 喜行著 P107
(5)最後の琉球王国 開分社 比嘉朝進著 P12
(6)清末中琉日関係史の研究 京都大学学術出版会 西里 喜行著 P108
(7)清末中琉日関係史の研究 京都大学学術出版会 西里 喜行著 P110
(8)最後の琉球王国 開分社 比嘉朝進著 P85、86